先日、白河小峰城に行って松平定信について書きました。そのときの将軍は徳川家斉は在位50年、子どもが53人だったと。 家斉は愚将と言われています。
松平定信による寛政の改革は徹底した質素倹約で無駄遣いをやめて節約しようと一定の成果をだしましたが皆息苦しさを感じていました。
松平定信の名言「楽しきと思うが楽しきの基」
我慢は続きません。5,6年で終わってしまいます。田沼意次の時代の自由な文化を悪と決めつけ、寛政の改革は朱子学以外は禁止となってしまいました。実際はちょっと違うみたいですがそうなってしまったようです。朱子学は儒学の中でもかなりかたよった考え方で難解です。
田沼意次を批判して養子に出された定信は徹底して田沼時代を批判しました。
浅間山の大噴火によって天明の大飢饉が発生し、白河藩を立て直した松平定信に白羽の矢が立たり老中に。
家斉が父親に大御所の称号を与えたいということに反対し失脚。
寛政の改革がなくなり、家斉は倹約の反動からか贅沢三昧。
そのおかげで浮世絵の葛飾北斎、安藤広重や十辺舎一九の滑稽本、与謝蕪村の徘徊、歌舞伎、川柳など化政文化に花が咲きました。
0 件のコメント:
コメントを投稿