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長野市, 長野県, Japan
男三兄弟の真ん中。子供3姫。趣味:いい言葉収集。仕事:長野市でステンレス、鉄でいろいろ作ってる㈱エクセルの社長。

日曜日, 7月 09, 2023

7/9 山崎安斎と伊藤仁斎と桂昌院

大阪の道修町(どしょうまち)は薬の街だそうです。古事記に登場する少名彦(すくなひこ)を祀る少名彦神社があります。日本医薬の祖神・少名彦と中国医薬の祖神・神農(しんのう)をお祭りしている日本医薬の総鎮守だそうです。道修町には名だたる製薬会社が軒を連ねています。

少名彦は大国主とともに国造りをした神様です。
1780年に京都の五条天神から少名彦を招いて創建したそうです。
江戸時代にコレラが流行ったときトラの頭蓋骨を煎じて飲むと効くということで虎が祀られています。コレラは漢字で「虎列剌」と書きます。
そこから京都へ移動して、山崎闇斎の家があったという碑を見に行きました。すぐ近くに徳川綱吉の母、家光の側室、桂昌院が生まれた家の碑があります。八百屋の娘でお玉さんと呼ばれていて、玉の輿の語源だそうです。
山崎闇斎は江戸期の思想家。 崎門と呼ばれる日本朱子学、そして近世神道を代表する垂加神道を創始した人です。
幕末には水戸学にはじまり尊王攘夷思想に大きな影響を与えました。
有名な弟子に「浅見絅斎(あさみけいさい)」などがいます。
堀川通をはさんで伊藤仁斎の塾のあともあります。伊藤仁斎は儒教とくに朱子学と古義学の祖です。

山崎闇斎は闇斎学(崎門学)や南学派と呼ばれ、伊藤仁斎は古義学派と呼ばれ堀川通をはさんで塾生たちが殴り合いの喧嘩をしていたそうです。
山崎闇斎が創設した垂加神道。縁が深い下御霊神社へ行きました。





その後、黒谷(くろだに)へ。ここは浄土宗の開祖法然が比叡山を降りてはじめて草案(出家して住む小さな家)を開いたところです。浄土宗には総本山の知恩院と七本山というのがあって、金戒光明寺は本山にあたります。
五劫思惟(ごこうしゆい)の阿弥陀仏の横に山崎闇斎先生の墓とあります。この阿弥陀仏は非常にめずらしくこのアフロみたいな頭は気の遠くなるような時間修行して阿彌陀佛になった様子を表しているのだとか。全国に16体しかないそうです。
落語の「じゅげむじゅげむ、五劫のすり切れ・・」の五劫はここからきています。
山崎闇斎先生のお墓はだいぶ上にあります。
京都の街が一望できます。
ただ、黒谷は東山三十六峰にあると思いきや平安神宮の裏辺りにあり、哲学の道からあの丘はなんだろうと見えるところです。
なんだか私としては懐かしいような感じがしました。
今回は山崎闇斎先生にフォーカスしたフィールドワークでした。
京都は奥がふかいです。
 

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