葛飾北斎(かつしかほくさい/1760~1849年)
髙井鴻山(たかいこうざん/1806~1883年)
高井鴻山が37歳、北斎83歳のときに小布施に招いた。
それ以前にも北斎とは交流があったようだ。
鴻山は豪商にうまれ京都に遊学し、いろいろな学問を習う。
ときは幕末で江戸にて佐久間象山や大塩平八郎や横井小楠などとも交流。
天保の大飢饉が起こり、大塩平八郎の乱が起こります。
それをきっかけに老中水野忠邦による天保の改革がはじまりました。
質素倹約ぜいたくを禁止する天保の改革の影響で、娯楽である浮世絵も規制の対象となりました。江戸では創作が難しく小布施に行きます。
鴻山の自宅に北斎のアトリエ碧漪軒(へきいけん)をつくり厚遇する。
83歳から88歳まで4回も江戸から小布施を訪れます。
北斎が90歳で亡くなります。
昌平坂学問所の塾長佐藤一斎に朱子学を習います。佐藤一斎は途中陽明学に傾倒します。
鴻山はその影響からか陽明学も学んだようです。
1867年に大政奉還し、家督をゆずって東京府に出仕しながら私塾を開設。
その後、破産し小布施の邸宅も火事になり、病気で亡くなります。
高井鴻山は北斎を呼んだ人として有名ですが、文化人としても優れていたようです。
不思議と妖怪画をたくさん描いているそうです。
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