ハンニバル・バルカは第二次ポエニ戦争で活躍した戦略家であり天才戦術家です。
BC247 年カルタゴというアフリカの沿岸部にあった海洋国家に生まれます。
その当時、ローマとカルタゴはシチリア島を巡って争っていました。
いわゆるポエニ戦争です。シチリアはメッシーナとシラクサとカルタゴの3国で支配されていましたがローマが制圧して第一次ポエニ戦争は終結します。
ハンニバルは父ハミルカル・バルカとスペインに領土があったカルタゴがイベリア半島に領土を広げるためについていきます。やがて父が亡くなり後を継いだハンニバルがアルプスを越えイタリア制服を目論みます。これが第二次ポエニ戦争です。
戦術にすぐれたハンニバルはあっという間にイタリアを制圧していきます。
そしてカンネの戦いで大勝利します。
その後、ライバルのスキピオ・アフリカヌスの登場でハンニバルは追いやられていきます。
本国カルタゴを攻めれば、ハンニバルはイタリアから出ていくという戦略があたり、ハンニバルは15年いたイタリアから本国に戻されます。
そしてザマの戦いでスキピオに大敗し和睦して第二次ポエニ戦争は終結します。
その後ハンニバルは戦争で疲弊したカルタゴを立て直しますが、改革に不満をもったものから反発されシリアに亡命。
シリアとローマとの戦争などにも巻き込まれますが、敗退したシリアに身柄をローマに引き渡されそうになり隣国ビティニアに亡命するもおいこまれたハンニバルは紀元前183年は64歳で自害します。奇しくもそのとしスキピオも53歳で病死しました。
歴史は儚いですね。
カルタゴという国は残念なことにハンニバル以外有能な武将がいませんでした。それに指導者もハンニバルを支援しませんでした。天才も一人では勝てなかったのです。
その点ローマは人材が豊富でした。
その後、ハンニバルの戦術を徹底的に学びローマは最強になっていくのです。
第三次ポエニ戦争でカルタゴはローマに滅ぼされるのです。
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