女性天皇では推古天皇が有名ですね。
父:欽明天皇 夫:敏達天皇 兄:用明天皇 弟:崇峻天皇(異母兄弟)
ただ推古天皇は天皇になりたかったわけではなく、夫がなくなり、兄がなくなり、異母兄弟が暗殺され、息子の中継ぎで天皇になりました。
だから男系なのです。
推古天皇のあと34代舒明天皇(629-641)
舒明天皇(じょめいてんのう)は推古天皇が皇太子をたてなかったため皇位継承に聖徳太子の息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)とどちらにするかとなりました。
蘇我蝦夷が押す舒明天皇が皇位をつぎます。皇位継承に敗れましたが人望があった山背大兄王は蘇我入鹿に襲われ生駒山に逃げましたが山背大兄王は一族ともに法隆寺で自害しました。
蘇我親子(蝦夷・入鹿)は絶大な権力を持ちます。
舒明天皇はあまり有名ではありませんが第一回の遣唐使を派遣した人です。天武天皇の父です。また百済大寺を建てたが数年後焼出。蘇我氏から離れるため飛鳥岡本宮(あすかおかもとのみや)に遷都。その後の妻皇極天皇は後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや)と区別されるそうです。どちらも奈良県飛鳥村にあったとされます。
642年から645年まで皇極天皇
舒明天皇が亡くなって推古天皇と同じく中継ぎとして妻の皇極天皇49歳が即位。
そんなとき皇極天皇の子、中大兄皇子のちの天智天皇は中臣鎌足らと乙巳の変を起こします。そして皇極天皇は生前退位したのか、させられたのか皇極天皇の弟の孝徳天皇を新たに即位させます。日本史上発の譲位(退位)とされています。
中大兄皇子はクーデターで天皇になるのは奪ったということでよくなく、孝徳天皇を即位させ皇太子になりました。それまでは舒明天皇の子、古人大兄皇子が皇太子だったため、中大兄皇子は大義名分がなかったため乙巳の変で天皇にならなかったという説です。
弟に考徳天皇が亡くなったため皇極天皇は再び天皇となり37代斉明天皇となった。これを重祚(ちょうそ)といいます。これも日本初の重祚です。
子の中大兄皇子のちの天智天皇が政務を取り仕切っていたが朝鮮半島情勢が緊迫していたこともあり皇極天皇が即位した。孝徳天皇が難波長柄豊碕(なにわのながらとよさき)宮(難波宮)に遷都したものをふたたび飛鳥岡本宮へ遷都した。これを後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや)という。
皇極・斉明天皇は天智、天武天皇の母であり、初生前退位、初重祚とすごい天皇です。
重祚(ちょうそ)とは退位した君主が再び践祚
践祚(せんそ)とは天使の位を受け継ぐこと。